海津ヨシノリの気まぐれコラム/2001年06月分(0494〜0523)


0494 ●フォトイメージング500発
6月1日、毎日フォトイメージングが500点目となった。最初はこんなに続くとは思っても見なかったが、冷静に考えてみれば、たったの500点である。10年続けても4000点に満たない。仮に10000点を目指にしたとすると、27年と5ケ月ほどかかる計算になる。すると私の限界点数は10000点が越えられるか?という結論になってしまう。20才から始めた人が100才で天寿を全うしたとしても、29200点である。いやいや、オギャーと生まれてから100才の天寿を全うするまで毎日描いても36500点だ。こんな計算をすると、人の一生はいかに儚いものかということが判る。つまり人生3万日生きれば長生きの域という現実だ。実は、この怖い話を新世紀冒頭に思い浮かべてしまったのである。21世紀となり計算がしやすくなった分、自分の残りの人生をシミュレーションしやすくなったからだ。つまり、2000年を境に20年後は2020年というストレートな計算の事である。2000年の時の自分の年齢に単純な加算を行うだけだからだ。少なくとも2000年に成人した人のうち、2100年を迎えることの出来る人は数えるほどだろう。100才まで生きたとして2080年である。この計算を私はこの世で一番怖いシミュレーションだと思っている。そんな事を考えてみれば、500などという数字は屁のような数でしかないことが瞬時に判る。もっとも、『たかが500点』は『されど500点』ではないという事だけははじめから判っていたが、こうして無情な計算を行うと何か空しい気がする。しかし、それでも何もしないよりは何かを模索出来るのでは・・・と自問するのは煩悩の成せる業だろうか。
2001/06/01

0495 ●Flashの功罪と間違った使い方
資料探しで訪れたあるサイトで、怒りが爆発してしまった。まず唐突にボタンバー等が全て消滅しFlashが始まったのである。ボタンバーは手動で戻せるが、このお馬鹿サイトはFlashをスキップさせるボタンが無いのである。もしかして『そんなボタンなどなくてもスキップさせるのは常識』だったら今回のコラムは赤面ものだが・・・。兎に角スキップさせることが出来ないので、ひたすら、うざったいFlashムービーを鑑賞しなくてはならない苦痛は、尋常な精神状態を逸脱させるのに充分な武器であると改めて痛感した。しかも、様々な情報の分岐処理がすべてFlashムービーなのだから開いた口が塞がらない。前にも書いたかもしれないが、私はFlashを毛嫌いしているのではない。むしろこれから主導権を握るキーソフトの一つであると高く評価しているつもりだ。しかし、実態は今回訪れたあるメーカーのサイトのように意味のない使い方があまりにも多すぎて閉口してしまうのは私だけだろうか。更にやたら(設計者だけ)おしゃれだと勘違いしているムービー処理とゴテゴテなデザイン(体裁良くまとめているだけでデザインなどと呼べるところは希少価値かもしれない)で、何がどこにあるのかすら瞬時に判らないサイト(瞬時も糞も無く、何時間調べてもわからない所もあった)が本当に多すぎる。しかし、それをあえて意図的に行っているのなら勝手にやっていればいいとは思う(それでも、ベージュのバックに黄色い文字のリンクなんていうのはデザインではない。少なくともオンライン処理のデザインでは論外の処理ではないだろうか。)が、メーカーとして消費者に情報を提供しようとする側がやってしまっては逆効果ではないだろうか。もちろん大きなお世話だとは思うが・・・。
2001/06/02

0496 ●思い出が情報化する時
かつて子供の頃に見たTV番組の断片的な記憶を紐解き、同じような記憶を持っている同年代の輩と昔話をするというのはある意味で平和な時代だったのかもしれない。映画ならリバイバル放映を待てば、自分の記憶がどの程度正しく、どれだけいい加減であったかを知ることは出来るが、TV番組はそれが出来なかった。しかし、DVDの台頭によりそれまでごく一部にはビデオやLDが販売されていた昔のドラマが唐突に復刻版ブームにでもなったかのようにリリースラッシュとなって久しい。マニアにはうれしい悲鳴というより、良い時代になったといったほうが正しいだろう。でも、これで妙に変なヲタクが出没し始めているらしい。例えば本放送時には生まれていなかった年代のヲタクである。ヲタクという表現はある意味で不適切かもしれないが代替えの言葉が見つからない。とにかく年齢的に不可思議な方がやたらと詳しく自分の父親が子供の頃に見ていたTV映画に精通しているのを目の当たりにすると不自然を通りすぎで不気味さえ感じる。いや、別に本放送を見ていないからいけないというのではない。更に古くても良いモノは時代を超越していることも理解している。でも・・・そうではない、どちらかというとB級に位置する作品に精通するっていうのは、やはりどことなく変だ。話がグチャグチヤになってしまったが、何が言いたいかというと、思い出としての記憶が繰り返し確認出来る情報に変化してしまったことは果たして幸せなのだろうか? という事である。確かに情報として何度も繰り返して鑑賞出来たりすることはすばらしいに決まっている。でも、個々の脳裏に焼き付いた個人の体験という情報と一緒にオーバーラップした記憶は、永遠に過去の記憶のままでいいのではないだろうか・・・と・・・突然思うようになった。
2001/06/03

0497 ●駅で多発する事件で思い出した事
最近駅で多発する未成年の重大犯罪には麻痺してしまったのか?滅多なことでは驚かなくなってしまった自分が少しばかり怖い。どうしてこうなってしまったのかを様々な専門家が分析しているが、思うに、情報が錯乱しているからこそ目立っているのかもしれないという考え方もある。そもそも未成年の犯罪は昔だって多かったと力説する方もいる。ただし当時はもみ消しが横行していたとか。真偽のほどは判らないが、今だってもみ消しは相当横行しているような気がしてならない。ところで、18年ほど前、サラリーマンテザイナーであった私はある時同僚と帰宅途中の地下鉄の中にいた。時間的には10時前といったところだった。私だけが座ることが出来ずに立っていたが、突然私の横に酔っぱらいのチンピラが近寄ってきたかと思うと、因縁をつけて一触即発の状態となった。私はキレそうになったが、下手に暴力に訴えて怪我をしては仕事に支障がでてしまうと、とっさに判断して無視を決め込んだ。すると相手のボルテージは最大に上がりつめ、もういつ何をされてもおかしくない状態にまで車内は緊張したが、それでも私の前に座っていた同僚2名は、私など見ず知らずの人間とでも言いたげに視線すら合わせずに無視をしているではないか。入社歴では後輩だが、年齢も経験もスキルも私より上の先輩達のこの行動に私は何か信じていたものが突然目の前から去ってしまったような虚脱感を味わった。幸い、私は帰宅手段を変更するために次の駅で下車して事なきを得たが、信じるに値しない同僚の実態を見てしまった私は、もう翌日から会社に行くのが馬鹿ばかしくなってしまった。確かに自分が逆の立場だったらどう対応したかを即答することは出来ないが、それでも私であったらチンピラを刺激しないように次の駅で下車するなどの方法をみんなで模索していたと思う。余談だが、お酒は楽しく飲むもの。時々年下に代表されるように、自分より立場が下と判断するや、突然豹変して説教じみたり偉そうなことを言う人がいる。偉くもないのに偉ぶる人というわけだ。大抵この手の人は自分より立場の上の人には腰巾着のようにヘラヘラとすり寄ったりするのが定番ではないだろうか。仲間内ではこの手の人を『拝金説教オヤジ』という。有名・金持ち・大御所崇拝と言えば判りやすいかもしれない。頭の中がストレートで憎めない奴かもしれないが、あんまり目の前をチラチラしてほしくないと思うのは私だけだろうか。兎に角私はこの手の人とは同席したりしないようにしている。もちろんこちらから頭を下げてでも説教をしてもらいたい人はいる。でも、そういった人ほど頼んでもなかなか説教はしてくれないものだ。
2001/06/04

0498 ●願い事はひとつでいい
ランプを擦ると魔法使いが現れて『願い事を3つ叶えましょう』と言われた主人公は・・・というのはお伽噺の定番だが、昔からこの質問は色々な場所での余興に使えるので重宝している。まずこの質問をぶつけると、多くの人は『金持ち、有名、健康』に代表される希望を羅列するはずだ。特に年齢が若いほどストレートな物欲を求め、高年齢化すればするほど精神的な欲望に傾倒するはず。いやいや、そんなことはどうでもよく、老若男女は等しく煩悩丸出し状態となるわけである。でも、欲深な私だったら願い事はひとつでいい。『貴方のような魔法使いにしてください』という願いだけでいい。これぞ究極の煩悩ではないだろうか。という解答で締めくくって、その場を盛り上げて終わり・・・というわけだ。実はこの究極の解答を私は小学校の4年生の時に発見したのである。さて、馬鹿な話は決定的に突き詰めてみるのが好きな私は、では実際に究極の魔法使いになって何でも望みが叶うようになった私はどうなるのか?というこれまた実に馬鹿げたことを中学生の時に真剣に考えたことがあった。でも、そのような状況が想像できない事も影響したが、兎に角、虚無感だけしか残らなくなったのを思い出した。つまり何でも思うとおりになるということは実は生きていることにはならないという結論である。生きているということは、呼吸をしていることではないからだ。思うとおりにならないからこそ人生ではないのだろうか?・・・と。そんな事を考えていた日々を突然思い出した。
2001/06/05

0499 ●曖昧な一族郎党も昔話?
唐突に自分の一族というものを考えてみた。いや、整理してみたという方が正しいかもしれない。一族と言ってもつまりは親族の話である。簡単に父方、母方の従兄弟関係を整理していていきなり困ってしまった。即答出来ないのである。考えればまったく一面識も無い(意識の薄い幼児期に会ったことすらない)従兄弟が数人いる。それでも、頑張って整理すると、父方で男1名、女3名、母方で男7名、女3名、更に再従兄弟の記憶は父方で男1名(故人)、母方で男1名といったところが記憶の限界である。もし親族の中に有名人がいたら、定期的に一同が集まることもあったかもしれない。で、話を従兄弟に戻すと気が付けば私には親しい従兄弟があまりいない。会うのは法事の時ぐらいだからだ。これではどう転んでも親しいとは言えない。にも関わらず親同士は親しさを装っているのだから微笑ましい。親同士は兄弟だから当然だが、従兄弟となってしまうと、幼児期からの関係が大きく影響してきているのかもしれない。もし家が近くであれば大人になっても親しい関係は続いていたかもしれないと。まさに遠くの親戚より近くの他人である。思うに親族というだけで、相互にはじめから甘えが発生した関係となってしまうのに対して、他人同士は一定の緊張感がはじめからあるので、関係が良好に続くのではないだろうかと私は感じている。もちろん兄弟以上に付き合いの不快従兄弟同士の話は沢山聞いている。ある意味で、そういった従兄弟がいないことが少し寂しい気がするがそれはわずか数十年の間に突然核家族という世界を作ってしまった我が国の負の財産かもしれない。ふと、そんな事が頭の中を走った。
2001/06/06

0500 ●懐疑的なリサイクルショップに呆然
先月唐突に作成した本棚により使用しなくなったスチールケース(高さ60cmほどのA3とB4の小型マップケース)が2つ出てしまった。そのまま粗大ゴミとして処理するのは簡単だが、お金もかかるので車で5分ほどの事務用品リサイクルショップに電話を入れた。ここは大型の厨房器具から机まで幅広く扱っている。私としては最悪タダでもいいから引き取ってもらえれば・・・と考えていた。さて、電話は直ぐに繋がったが、店長が不在で査定が不可能と言われてしまった。それならこれから現物を持参するのでと切り返したが、これから店長の携帯電話番号をお伝えしますので、そちらに電話を入れて対応してくれと言われてしまった。なんか少し変な雲行き。そこで指定された店長の携帯電話に電話を入れ、どのようなものかを詳細に説明したところ、『分かりました。1万円でお引き取りいたします。』と言われて私は直ぐに丁重にお断りして電話を切った。問題のスチール家具は8年ほど前に新品販売専門の事務用家具業者から2つで6000円ほどで購入したモノだったからである。いくらなんでも納得出来ない。そもそも、粗大ゴミとして処理しても2つで2000円に満たないはず。もっと極端な処理なら、金ノコで本体をバラバラにし、引き出しはそのままビニール袋に入れれば不燃ゴミとして立派に処理されるサイズ。どこから1万円という額が弾き出されたのかは分からないが、なんだか悪い言い方をすると足下を見られているような気がしてしまった。確かに、いつ売れるか分からない商品を引き取るわけだから、保管料なども必要だろう。でも、この額は私には到底理解出来なかった。さてさて、近い将来処分したいスチール家具がまだ数点あるので、今からそれらの処理について整理しておく必要に迫られてしまった。もっとも当面は問題のスチール家具の処分である。取りあえずもう少し他の店を調べてみることにする。最悪タダが粗大ゴミに代わるかもしれないが・・・。
2001/06/07

0501 ●池田小学校事件は行政に責任がある
今日8日、大阪府池田市、大阪教育大付属池田小に刃物を持った男が乱入し、児童を次々刺した事件で死亡者が出てしまい、仰天されている方も多いはずだ。2年前に京都で起きた保護者会のためにいったん帰宅した児童が校庭で刺し殺された事件を思いだした方も多いのではないだろうか。あの事件後も実は学校関係者には一切緊張感がなかったのである。昨年あたりから、大田区の公立小学校、中学校では校門さえ開いていれば何時でも、誰でも勝手に教室を含めたすべての施設を見学出来るのである。解放された学校という行政の一環のようだが、校門に受け付けもなく、防犯カメラさえ設置していない状況でこんな事を許可したら、変質者や薬物中毒者に対して、自由に学校に刃物をもって遊びにきてほしいと言っているようなものだ!と危惧していた矢先におきた今回の事件に、私は言葉に出せない衝撃を受けている。大田区以外でも同じような対応が行われているのかは知らないが、少なくとも公立学校である以上、大きな違いはないはずだ。思うにおかしな教師を監視するような意味合いもあったのかもしれないが、それは内部で対応できるはず。どうして素人にも予想出来る程度の事件を予防出来なかったのだろう。しかも、犯人は99年3月、校務員として勤めていた兵庫県伊丹市内の小学校で、自分が服用していた精神安定剤をお茶に混入し、同校教諭4人に飲ませた傷害容疑で逮捕されたが、刑事責任能力が問えないとして起訴されず処分保留、措置入院となっていたという。その判断を下した者に責任を追及することは出来ないのだろうか。思うに、日本テレビ系番組「雷波少年」で放映された岩手県職員の不誠実対応ぶりに対し、全国の視聴者から同県に苦情が殺到し、やっと対応が変だったと知事が陳謝している程度が、我が国の典型的な大人の姿かもしれない。と言ったら不謹慎だろうか。もうこうなったら全部をいったんリセットするぐらいの事をしないとダメかもしれない。腹立たしいのは、犯人の精神科への措置入院の経歴などが確認され、刑事責任能力を問えない可能性があるために匿名扱いとなっていることと、またもや不起訴となり、一般社会で何かを起こす可能性があるということである。うちの近所にも数年前に幼児暴行で逮捕された犯人が保釈されていることが分かっている。どうしてこんな奴らの人権が保護されなくてはならないのか私にはまったく理解できない。近所に、何時突然後ろから包丁を突き刺してくるか分からない人が住んでいるということだけが分かっている住民の気持ちを、脳天気な弁護士は理解出来ているのだろうか。私は数年前から少しでも不振な人物には絶対に背を向けないようにしている。とにかくこれほど滅入った事件はない。しばらく憂鬱で仕事など出来ないかもしれない。罪もない子供達が虫けらのように殺害され、罪のある犯人には強力な弁護団と時間が長引けば支援団体が付く、この馬鹿げたゲームのような世界はやっぱりリセットが必要だ。テロリストが偽造パスポートで自由に出入りする国だから何でも有りなのだろうか。逃げ場もなく突然殺されてしまった子供達と先生、そしてその親族の方には心よりお悔やみ申し上げます。
2001/06/08

0502 ●トマトスープの冷やし中華?
夏はやっぱり冷やし中華(ラーメン、焼きそば命の体質)という脳天気な私は、時々狂ったように冷やし中華三昧となる。もちろん市販のスープ付き生面わ買ってくるだけなのだが。で、コツとしては醤油スープに若干のお湯で溶いた赤味噌を加える程度である。ところが、昼食は今年3度目の冷やし中華と決め手スーパーに走っていくと、見慣れない【トマトスープだれ】というパツケージが、まるで買って下さいとでも言いたげに私の目に入った。なにか仕組まれた罠のように無意識にパッケージをとってそのままレジに行き安易なゲットとなってしまった。帰宅して調理入るが、その時はじめてスープの正体を見てびっくり。ほとんどトマトジュースである。いや、トマトジュースに酢醤油が若干入っているような味。それでもいつものように定番のトッピングをしていざ試食・・・。しかし醤油だれではないので辛子は使えない。しかも、やっぱりトマトジュースに付け麺しているような味。私としては、なんか凄く外してしまっている味である。これって流行のスープスパゲッティーのノリなのかもしれないと今頃気づくも後の祭り状態であった。やはり冷やし中華には醤油だれか味噌だれが一番だ。そう言えば中華とは言ても本家中国には冷やし中華の文化は無い。韓国には冷麺の文化があるのに不思議だ。もっとも日本のラーメンはどう見ても中華料理もどきの日本食で中華料理じゃないし・・・。そう考えると、食文化というのは面白くて奥が深いきがする。口直しに明日も冷やし中華?
2001/06/09

0503 ●話題の教科書を読む
本来、文部科学省による検定作業中に部外秘であるはずの検定本が一部の似非文化人に渡り、局所に対する特定の見地からする批判だけが一人歩きし、常に左翼的な報道しか行っていない新聞社とTV局により歪曲させられ、現物が一般の目に触れていないにも関わらず批判本が4冊も発刊された事に対して市販本を出すことにしたという内容が冒頭に記載されていた。というとこで一気に読んでしまった2冊を一言で言うと『どこが変なのか?』である。歴史を美化して歪曲しているような箇所は見あたらない。先の戦争を正当化しているような記載も見あたらない。少なくとも私が過去に学んできたものとの大きな違いは見いだせなかった。そもそもサンケイ新聞で連載されていた【中学校公民/歴史教科書の通信簿/学習指導要領準拠度評価】の記事を読むと、8冊ある教科書中、驚くことに話題の扶桑社の教科書が一番バランスがとれて、まともな内容だったことの方が驚きである。これに難癖をつけたきた隣国の真摯でない態度には呆れてしまうが、自国の教科書のいい加減な部分を是正してから外国に文句を言うのが筋であろう。まっ専門家でない私がそんな話をここでしても説得力はないのでこのくらいにする。それよりも今回久しぶりに教科書を読んで感じたことはね学校で使われる教科書は誰でも自由に購入できるようにしてほしいという事だ。少なくとも今回のように各学校で決定される前にというのが理想だろう。クローズな場所で勝手に決められた変な教科書を使わなくてはならない生徒があってはならない。こういったものだからこそ、国民が審判してもよいのではないだろうか。さてさて、教科書を何十年ぶりに真面目に読んだ率直な感想は、中学の社会科の教科書ってこんなに小さいサイズなのに大きな文字だったの?である。安土桃山時代の好きな私には物足りない内容であった。一冊ですべての日本の歴史を解説するからには仕方ないのかもしれないが・・・。おっと、もしかしたら教科書を真面目に読んだのは生まれて初めてかもしれない。
2001/06/10

0504 ●価格崩壊は想像以上に進んでいる
物の価値は価格に現れるという時代は既に過ぎ去ってしまったが、それにしてもその豹変ぶりは想像以上である。例えば安手の傘の代名詞であったビニール傘は300〜600円ほどの範囲で販売されているが、驚くことに3段折り畳み傘が100円ショップで売られている。しかも、同じ商店街の中で販売されているのだから仰天する。更に新品が特化販売で980円で売られていたプラスチックのA45段の書類ケースと同一のものがリサイクルショップで2300円で売られていた。もうこうなると滅多なことでは驚かない。ただし、逆に衝動買いということに躊躇するようになってしまった。たかが10円20円のものであってもだ。もちん一刻を争うように直ぐに必要なものであれば、発見速購入というのは今も代わらないが、そうでないものは数軒で比較をするようになった。なんとなくセコイ感じの自分が笑える。ところで不景気が続いているはずなのに、繁盛している店は世間の景気と無関係のように盛り上がっているのはどうしてなのだろう。例えば衣料品の店などは景気に真っ先に左右されるはずなのに。衣料品ばかりでなく高級品と言われているものもコンスタイントに売れているそうだ。もうこうなると不景気なのは自分のところだけではないかと勘ぐりたくなる。きっとそうだ。でも、日がな一日読書に耽っていられるのは優雅な証拠だろうか? 自分ではそうは思わないが、ただ一つ言えることは既に価値観が崩壊し昔の価値観で計りきれないということだろうか。
2001/06/11

0505 ●昔は一家に一組あった百科事典
説明されてもピンとこないが、日本は世界でも珍しい部類に入るほど個人で蔵書を沢山持っているとか。欧米では公共の図書館を利用することが基本なのだそうだ。本当だろうか? 真偽のほどは別にしてそんな話を聞いたときに思い出したのが、昔は一家に一組あった百科事典の事である。実は我が家には三組の百科事典があった。それに定番とも言われていた少年少女文学全集が加わると、とんでもないスペースを必要とした。しかし、私にとって百科事典が有意義に利用されたのは美術に特化した巻ぐらいであった。少年少女文学全集に至っては子鹿物語しか読んでいない。そもそも私は眠たい文学全集はいまだに苦手である。こうしていつしか粗大ゴミとなってしまった重くて利用されない書籍は古本屋に引き取られていったが、悲しいことに百科事典は相当世間にだぶついているのか? まったく相手にされずに可燃ゴミとして一生を終えてしまった。確か10年ほど前の話である。苦しい思いで買い求めてくれた親には申し訳ないが、いつの世も親の希望を見事に裏切るのが子供の行動である。しかし、それでもまだ我が家には捨てきれない百科事典が一組ある。どうしてあの当時は百科事典を誰もが買い求めたのだろうか?そんなに誰もかれもが向学心に目覚めていたとも思えないが、きってその裏返しの副産物だったのかもしれない。隣がカラーテレビを買ったから我が家でもという時代だったからだ。そんな話も今となっては本当に昔話でしかない。もう個人で蔵書をため込む時代は完全に終わったと言ってもいいだろう。モニターの向こうにインターネットという無限の図書館があるからだ。ただし牽引は百科事典をひくより遥かに難しいが、それも数年後には整理されるのだろうか。500">
2001/06/12

0506 ●衆院議員にカード型の身分証明書を発行?
ニュースによると、衆院議院運営委員会は12日の理事会で、各議員にカード型の身分証明書を新たに発行することを決めたそうだ。現状の身分確認は顔と金バッジだけという恐ろしく時代遅れな現状は修正すべきであろう。しかし、事の発端が衆院議員の間から『運転免許証を持っていないとレンタルビデオすら借りることが出来ない』などの不満が出たことにより、同委員会の庶務小委員会での検討がはじまったとか。いきなり遠い目になってしまた。世間では自由業で運転免許証を持っていなければ、レンタルビデオは借りることが出来ない。いや、レンタルビデオを借りることが出来ないことは大きな問題ではない。様々なシーンで身分を証明することが出来ないという苛立ちは経験したものでないと分からないだろう。かくいう私も、半分はそれが理由で30代後半に運転免許を取得している。そもそも我が国では自由業だとクレジツトカードを作成することも難しい。実際私は何度も拒否されたが、10年以上同一メーカーと仕事をしていた実績を評価されてカードを作ることが出来た。だからフリーとして活動を考えている方は務め人のうちにカードを作成しておくといいだろう。こういった馬鹿げた規定のようなものもはやく改革が起きればいいのだがねはたしてどうなることやら。さてさて、問題のカードがいかなるものか想像してみた。普通の人はここで、大手企業が採用しているIDカードのようなものだろうと思うはずだ。ところが、どうやら名刺大のカードに、顔写真とともに住所や生年月日を記載し、「上記の者は衆院議員であることを証明する」と書かれるそうだ。おいおい、議員の仕事って子供のゴッコ遊びじゃないのでは?
2001/06/13

0507 ●古いと言ってもたかが10年前なのに
10年以上前に購入しねとうとうこの6年ほどは一度も電源を入れなかった旧PC-98互換機の外付け大容量100MBハードディスクのヘッドがどうやら破損したらしいので、バックアップも取ってあった関係で、大好きなバラバラ分解に入った。しかし、今となっては【大容量100MB】というのは笑える世界だ。さ、バラバラにするにはドライバーで外枠を外すわけだが、もういきなりカルチャーショックを受けてしまった。通常ハードディスクの外枠を外すには、ネジは4つも外せばOKなのが最近の製品である。いや、最新鋭だとネジすら見あたらない物まである。ところがコイツはなんと12庫のネジを外さないと外れないのである。やっとの思いで外枠を外すと、今度は中枠である。いやはや、こんなにネジを必要とするのであば高額になるわけだと素人ながら納得してしまった。確か当時で20万円以上で購入している。思うにこの手の製品の進化は尋常なスピードではない。唯一進化が止まっていると思えるのはWindowsマシンだろうか。ハード的なスペックは格段に進化しているが、ハードウェアについては相変わらず組み立て企画?の延長上で鎬を削っているように私は感じる。まっ、なんだかんだで文句を言わずにスピードも我慢していれば壊れない限り少なくとも10年ぐらいは駆動するはずだ。ただしハードディスクは連続駆動で5年以上は危険だという数値も報告されている。もちろん、最初に添付されていた、あるいは購入したソフトウェアは一切アップデートせずに使い続けることが前提なのは言うまでもない。そうすれば、それなりに早いスピードを持続して体感出来るからだ。でも、そんな煩悩を蒸しした人はどれくらいいるのだろうか。絶対に新製品になんらかの反応をしてしまうのが人間の欲というものかもしれない。
2001/06/14

0508 ●貴方も私もたった6%のエリート?
人類全世界60億のうち、インターネツトを利用している人は、たったの6%だそうだ。つまり、3億6000万人しかインターネツトを利用していないことになる。経済的な理由や環境が整わない、政治的に束縛されている等、理由は多々あるが、もし、残りの56億4000万人がインターネットを楽しむようになったとしたら、世界はいったいどんな状態になるのだろうか? 個人的にはそんな時代はあと1世紀ほど先のことだと感じているが、予想が外れて数十年後であれば楽しいかもしれない。まず音声認識デバイスの整理あたりかポイントとなるだろうか。いや、そうまでしてインターネットを楽しむ、あるいはコンピュータを使うことは本当に楽しいことなのだろうか? バーチャルゲームが台頭し外で遊ばなくなった第一世代の子供達が成人し、その子供達が小学校に通い始めた今、様々な弊害が出ているのではないだろうか? どうしてテーマパークよりハイキングやキャンプに人気があるのだろうか。ある意味で自浄作用が働いているのかもしれない。しかし、いくら自浄作用が働いても、幼児期に屈折した意識を持ってしまった者は成人してもそれを修復することは出来ないのではないかと最近感じている。聞けば今の子供達はネジを回すという行為が苦手な子が多いとか。雑巾を絞る、鉢巻きをするも同様らしい。これはすべての事柄がほとんど指を押すだけで完結してしまう生活環境に端を発していると力説する専門家もいる。なるほど、今の生活はほとんどがリモコンのスイッチの世界である。こんな生活を繰り返していると、本来使うはずの機能を使わずに成人してしまい、何かを壊しているのではないかと少し心配になってきた。進化や退化は長いサイクルで少しずつ確実に動く。しまったと感じたときは既に手遅れなのかもしれない。
2001/06/15

0509 ●神経は一点集中が限界
ここのところ少しばかりコラム内容が社会的なネタに降られている感があると、一番気にしているのが私である。別に私が世の中を『一刀両断』しても誰も面白がらないし、私自身もそんなつもりはない。もし本気でそんなつもりがあったら政治家に立候補しているはずだ。いや、だからこそ無関心というのとは意味が違う。たまにマルチに何でも知っている博識の方がいるが、普通の人(私)にはそんな芸当は出来ない。だから精一杯嘘の無いようにコラム執筆は心がけているが、それもあくまで私が仕事の片手間に調べ上げる程度の話なので、とんでもない勘違いやミスもあるはずだ。それは数年経ったときに笑い話のネタとして生き返るかもしれない。ということで私のネタ探しは何かと言われると、ずばりインターネットである。もともとニュースを見聞きするのが好きであったが、ニュースをTVで見るとアナウンサーやTV局の主観が入ってしまうので、ここ数年はほとんど本気でTVのニュースは見ていない。いや、正しくは民放のニュース番組は本気で見ていない。ただし、複数の新聞には目を通している。やはり旧タイプの私としては完全にオンライン上で文字を読むことがまだ苦手だからだ。やはり、このあたりは生まれながらにしてオンラインでしか活字を読んだことが無いという新人類(死語)が登場しないとダメなのだろうか。でも、新聞に目を通すのは本当に目を通す程度である。隅から隅まで嘗めるように読むことは滅多にない。基本的にそんな時間があったら、散歩かウインドーショッピングにいったほうがいいと思っている。そういったボーと過ごす時間が無いと唯一神経を集中する仕事が、中だるみ状態となってしまうからだ。それはやっぱり一番まずいことである。
2001/06/16

0510 ●日本は本当は広い?
長崎のハウステンボスが赤字続きで経営は苦しいらしい。そのうち出かけようと思っていた私にとってはなんとも複雑な心境だ。『私が訪れるまでに存在しているか?』・・・と。個人的には想像を絶するほど未来を見据えたしっかりした設計で感銘をうけたのだが、だからと言って人は集まらなかったということだろうか。実は、これは思わぬ伏兵があったようだ。例えば東京や大阪といった大都市近辺に住んでいる方にとっての旅行を考えると、北海道や九州に出かける予算で充分に外国旅行が出来るからだ。具体的には、台湾/韓国/グアムといった感じである。実際調べてみると驚くことに、これらの国にに出かけたほうが安い場合が少なくない。日本は本当は広いのだろうか? なんだか不思議な気がするが、これは物価の問題が大きく影響しているのは事実だ。特に交通費は価格崩壊というより、摩訶不思議な状況になっている。なにせ航空分賃のほうが安いのだから。こうなってくると観光収入だけを当て込んでいる地方財政って少しばかり危ないのではないかと心配になってしまう。そうなると次の一手は万博だろうか? 流石にこんな馬鹿げた行為は東京の都市博で中止(当時の青島知事の公約で見事に中止となり、結果、今となっては東京の赤字が爆発するのを防いだ)となったのを最後に沈静化すると思っていたら、逆に万博三昧の状態だ。最近の笑える例では、2005年開催予定の愛知万博だろうか。なにせ環境問題をテーマにしているのに、開催のために大鷹の生息する地域を開発し跡地は団地だとか。そんな必要が何処にあるのだろうか。しかも4年も先の開催なのに、どう計算しても今から巨大な赤字になっているのに何故開催しなくてはならないのだろうか? ユニバーサルスタジオみたいなものを作るのとは違うのだが、どのみち一部の業者の利権とか関係しちゃっているのだろうか。聞きかじっただけで安易なことを言うのは不謹慎かもしれないが、なんとなく外した企画だと感じている人の方が多いのではないだろうか。
2001/06/17

0511 ●多発する入試ミス事件報道
ここのところ世間を騒がせている大学入試ミスだが、合否により確実に該当する方の人生は変わってきているはずだ。これは取り返しの付かない惨事と言っていいのではないだろうか。人の運命を左右してしまう入試の合否判定の誤報は絶対にあってはならないように思う。もちろん、不謹慎な意見ではあるが、誤報により人生が結果的に良い方向に向いたと解釈している方もいるかもしれない。しかし、それはあくまでも好意的な解釈であり、該当する方にとっては生涯『あの時合格が正しく告知され、そのまま入学していたら私の人生は・・・』という事実は生涯つきまとうはずだろう。確かに人生は些細な偶発や出会いなどによって導かれるようにして積み重なっているのかもしれない。何が良かった事で、何がまずかった事かの判断は本人にはできない。だが、しかし、ある日突然、自分の進路を決定する重要な審判の結果が間違っていたと知らされた者にとっては動揺は隠せないだろう。あってはならない事というのは意外に多いという現実を直視するのは辛いものだ。人の生命に関係ないことと楽観する方もいるかもしれない。しかし、人生とは些細な積み重ねが、巡り巡って人の生命を抹消してしまう事もある。SF小説の世界でいう過去に戻ったら道ばたの石ころ一つ動かしてはいけないというアレである。今回の入試ミス発覚が該当者にとって大きな石を動かしてしまったという事になっていないことを祈りたい。
2001/06/18

0512 ●忘れていたソフト達の復活
ついにアップデートを行うことの無かったFreeHand9だったが、FreeHand10の機能を見たら真っ先に申し込みをしてしまった。以前もあったが、こんな事を書くとIllustratorからの宗旨替えですか?と質問されることが多い。私としてはAdobeが倒産でもしてIllustratorが世の中から消えてしまわない限り、Illustratorが基本なのはこれからも変わらない。もっとも、妙なメーカーに買収されたりして悲惨な改竄が行われたりしたら使わなくなるだろう。ところで、私はFreeHandは2.0からのユーザーであり、個人的にはIllustratorの強力なライバルであると感じている。もともとは海外からのデータを開いて確認し、Illustratorにコンバートする目的で購入したが、Illustratorには無い設計思想に興味を持ったのは確かだ。かくして両者は私の中では、武田信玄vs上杉謙信といったイメージが強い。両者の歴史的な関係と過去のアップデートの内容を見れば一目瞭然だ。しかも、永遠に織田信長も豊臣秀吉も徳川家康も登場しそうになさそうである。ところで、アップデートというのは前にも書いたが、タイミングというものがある。定番として絶対にはずせないものは別として、あれば便利(FreeHandは私にとってあれば便利というレベルではなく、もっと上位レベルである。)だと感じているソフトの一部は、アップデートの案内を紛失した。雑誌などのメディアであまり登場しない等といった、ちょっとしたタイミングの悪さから忘れられてしまうことも多々ある。更に、これもやはり以前書いたように、せっかくアップデートしても狂信的なユーザーに振り回されていたりするのを見てしまうと、一気に使いたくなくなってしまったりするのは、私だけではないらしい。メーカーとしては一度離れたユーザーに是非とも戻ってきて欲しいと切望しているのはどこも同じである。しかし、ある意味でソフトウェア戦国時代は既に過去のものとなりつつあるのではないだろうか。少なくとも映像関係を除くグラフィッく業界では・・・。
2001/06/19

0513 ●ソフトは会得するのではなく仲良くする物だ
新しいソフトウェアがリリースされたり、人気ソフトがアップデートされると死にものぐるいで新機能を追う方がいる。その気迫には頭の下がる思いだ。でも、確かに新機能をマスターすることは大切なことだろうが、仮に全てのグラフィックソフトを完璧にマスターしたとして、果たしてそれで誰もが認める作品を生み出すことが出来るのだろうか? 答えは『ノー!』だ。ソフトウェアの機能をマスターすることとクリエイティブな作品を作り上げることとは次元が違う。実はこの事を勘違いしている方が実に多いという事を知り、少々唖然としている。もちろん、特定のソフトウェアの機能に助けられる場面だって当然あるるしかし、それは表現上の問題・・・もっと簡単に言うと表現するための絵筆がソフトであり、ソフトはクリエーターの思考を生み出す物ではない。ということである。だから、特定のソフトのエバンジェリストと言われている方よりも、書籍などを数多く手がけているライターの方のほうが、そのソフトについて詳しくノウハウを蓄積している場合が一般的だろう。じゃ、絵筆の特性を充分に理解せずに作品を生むクリエーターは結果として亜流なのだろうか? 答えは『ノー!』だ。木刀や竹刀の勝負に勝てても真剣勝負に勝てる保証は無いのと同じように、実践の上で積み重ねてきた言葉にならないノウハウには机上の論理など、木っ端微塵ではないだろうか? そもそも絵筆がなんであってもクリエーターは作品が埋めるはずだからだ。そんな事を考えていたら、ソフトウェアはマスターするのではなく恋人のように接する物(者)ではないかと感じるようになった。だからソフトには相性というものが存在するのだ・・・と。
2001/06/20

0514 ●語学はその国の教科書が最適
あまり具体的な事例は知らないが、どうやら某有名私立中等部で来年度の英語の教科書に米国(英国?)などの学校で実際に使われている国語(英語)の教科書が採用されるそうだ。私としては私立の学校は既になんらかの形で語学学習には該当する言語の国の教科書をとっくの昔から利用していたと思っていた。語学というのは単に言葉を理解するだけでなく、その国の文化や習慣、価値観なども理解しなくては正しい認識は得られないのではないだろうか。そのような観点で見た場合、その国の子供達が使う国語(日本人から見た場合の外国語)の教科書は絶対にベストチョイスではないだろうか。もちろん異常な民族主義や過激な宗教理念に凝り固まった国の教科書は多々問題があるだろうが、それらは少数である。もちろんこれは語学の教科書に限った話なので、それらについての心配は無用であろう。ところで、余談だが、NHKの教育TVで放映されている各国語の講座内容は、本当に思わず膝を叩いてしまうほどそれぞれのお国柄というか、国民性が説明しなくても分かってしまうほどだ。なんだかとても不思議な気になってしまい、思わずニタニタしてしまった。そして益々外国語はその国の教科書を使うことがベストに近いと更に深く感じてしまった。・・・実はここでこのコラムは完結するはずであったが、偶然、日本の兵隊の百人切りなどという虚報(終戦当時、虚偽を真実とねつ造され処刑された日本兵が数名存在している。また彼らの遺族は今も故人の名誉回復を得ていない。)を、写真入りで、さも事実であるかの作り話とともに小学校一年生の教科書に掲げている某国の実体を知って唖然としてしまった。更に、某国の算数の教科書では、日本の兵隊が殺した、農民の数により足し算と引き算を教えているそうだ。あまりにも常識を逸脱した情報なので情報源そのものが虚偽である事を祈りたいが、残念な事にどうやらこの情報は本当のようだ。だとしたら、どんなに誠実な対応をしても、我々日本人全ては某国の民にとっては問答無用で、残酷、野蛮で救いようのない愚考な民としか映っていないという事が分かってしまった。はっきり言って読むのではなかったと今は後悔している。ある意味で知らない方が先入観は生まれなかったのに・・・と。
2001/06/21

0515 ●とっても怪しいチョコレートプリン
プリンと言えば私の好物のひとつである。その昔は、牛乳で作るインスタントプリンを大量購入し、どんぶりで作成しては狂ったように食べていた。今はそんな暴挙は行っていないが、それでも時々無性に食べたくなることがある。流石に喫茶店でプリン・ア・ラ・モードなんかは頼む勇気はないが、それでもプレーンなプリンは時々恥ずかしくもなく注文してしまう。ところで、プリン・ア・ラ・モードっていうのは英語とフランス語を混ぜた和製外来語で、プリン・ア・ラ・モードそのものも日本製だそうだ。なんだか不思議な気分である。ところで、本日(21日)碑文谷の紀伊国屋にて、とっても怪しい『チョコレートプリンのもと』というのを衝動買いしてしまった。いや、実はコーヒーゼリーと勘違いし たような肝するがねそれはもう今となってはどうでもいい。さてさて、帰宅して早速作ってみるが、確かに香りはチョコレートだが、どう見てもホットココアである。本当に大丈夫なのだろうか?という心配の固まりとなったチョコレートプリンは室温まで下がってから冷蔵庫に入れ、4時間ほど経過しておそるおそる試食してみた。『な〜んだ。チョコレートババロア』なのね〜。という実につまらない結論となってしまった。もっとも心配していた味は想像以上に美味で少し徳をした気分になってしまった。ところで私はプリンとババロアの明確な違いが分からないのだが、大辞林で調べてみると、【プリン⇒プディング[pudding]英語/米・小麦粉・肉などに牛乳・卵・果物や調味料を加えて煮たり蒸したりして固めた、柔らかい食品の総称。日本ではカスタード-プディングが一般的。】【ババロア[bavarois]仏語/ゼリー状の冷菓の一種。卵・牛乳・砂糖を煮て、ゼラチンで冷やし固めたもの。果汁や生クリームなどで風味づけすることも多い。】それではゼリーとは何?・・・【ゼリー[jelly]英語/(1)ゼラチンまたは寒天などで固まらせた食品。(2)果汁に砂糖を加えて煮詰めペクチンを固まらせたもの。ジェリー。】ゼリーと寒天は同一?・・・【寒天[vegetable gelatin]日本語/テングサなどの紅藻類から粘液質を煮出して凍結・乾燥したもの。菓子の材料、微生物の培地などに用いる。】なんだかみんな同じようなものに感じるのは私だけなのだろうか?
2001/06/22

0516 ●当たってはいけない予想が当たってしまった。
本日(22日)近隣の中学校に男が突如乱入し、校庭にいた生徒を殴り倒し、駆けつけた教諭等に取り押さえられるという事件が発生した。遂にあってはならない予想が当たってしまった。しかも、前後して大型スーパーにて幼児誘拐未遂事件まで発生してしまったのだから近隣一帯に旋律が走ったのは言うまでもない。幸い近くにいた親御さんの機転により未遂となったが、もし刃物でも持っていたらと想像すると背筋が寒くなる。なお、誘拐未遂犯は逃走したまま未だ検挙されていない。かの池田小学校事件が引き金となり様々な動きが国内に発生したが、思うに公立学校に欠如している問題として、受け付けが無いということがクローズアップされているのではないだろうか。建設物としての体裁をもっていないのが公立学校なのである。また、警備員を新規に雇うにも法案などの筋道が必要となり、数年先になってしまうという馬鹿げた現実も無視できない。後は、親御さんらによる自警団を作るしかないだろう。もちろん、お子さんが通っている学校の警部を依頼されて断る親はいないはずだ。交代で対応すればいいのだから。兎に角、事が起きてしまってからでは手遅れである。まずは安全神話を見直し、世の中は危険がいっぱいであることを自覚しなくてはならないだろう。例えば刃物全般に渡って、購入時に身分証明を義務づけるべきという意見がにわかに浮上している。数年前の飛び出しナイフ事件の延長と考えればいいだろう。確かに『生活に密着した刃物の購入方法が面倒になることは好ましくない』という意見もあるが、子供も含めて、刃物を購入するということは、購入者が責任を持つという事であるという自覚を学ばせることもまた教育ではないだろうか。
2001/06/23

0517 ●自主回収された遺伝子組み替え食品
ポテトチップでお馴染みのカルビーが製造したスナック菓子『じゃがりこ』に安全性の審査の終わっていない遺伝子組み換えジャガイモが使用されているのが判明し、同社は今月7日以前に製造した製品の自主回収を決めた。発端は、カナダから輸入した原料の冷凍ジャガイモを検査し、遺伝子組み換えジャガイモを使っていた可能性が確認されたことによるそうだ。 更にこの件に追従するかのように同一理由でブルボンでも『ポテルカ』を自主回収に踏み切っている。まったく洒落にならない事件である。確かにメーカーに全ての責任があるとはいえない事件だが、食品メーカーとしては絶対にあってはならない事件であることも確かだ。昨年発生した雪印事件の影が乳製品の人気にかげりが出ているように、今も大きく一般消費者につきまとっている。しかも、今年に入っても雪印は一度ならずも数度となく似たような問題を起こしており、消費者離れは加速度的のようだ。雪印の社員の方には申し訳ないが、馬鹿な経営者のツケは当分消えないだろう。さて、こうなると雪印の事件とオーバーラップしてしまい、カルビーの他の製品は本当に安全か?という疑念を抱くのは私だけではないだろう。もちろん安易な疑念を抱くことはつまらない混乱を招くだけだが、とかく神経質にならざるを得ない遺伝子組み替え作物という問題に敏感に反応しない人はいないだろう。特に最近では中国ですら遺伝子組み替えに積極的であり、農作物の多くを中国に委ねている我が国としては、メーカーなり小売店の良心を信じるしかないのである。安全はタダではないという概念をまず持つことが先決かもしれない。多少高くても安全な食品を手に入れるという考え方が定着するまでにあとどれくらいかかるのだろうか。でも、人権を抑圧し、国際ルールを無視することなど何とも思わない国が、我が国の食料事情の鍵を握っているという現実の恐怖に関心のある方はどうやら少ないようだ。ご愁傷様である。
2001/06/24

0518 ●映画パール・ハーバーの評価?
話題の米映画『パール・ハーバー』の主演俳優、ベン・アフレックとマイケル・ベイ監督、プロデューサーのジェリー・ブラッカイマーが20日、都内で開いた来日会見は、まるで60年前の日米開戦前夜のようなピリピリムードに包まれたようだ。米国の日系人団体が映画の内容に抗議するなど問題を抱える作品だけに、主催者側はマスコミ各社に出席者名を事前通知するよう求めて不測の事態に備えたそうだ。東南アジアの見られるステレオタイプ的な日本バッシング映画ならあまりに馬鹿らしくて笑ってすまされる問題かもしれないが、この映画はブエナ ビスタ インターナショナルが配給という点が問題となっているのだろうか? でも、最近のディズアニメは日本作品のパクリばっかり。ウォルト・ディズニーが生きていたら泣くかもしれない。さて、話を戻すと、米国での抗議内容には米兵側にアジア系米国人が一切登場しないという点もやり玉に挙がっていたようだ。また日系人以外のアジア系住民からの抗議もあったようで、内容的にやはり何らかの問題があるのだろう。どうして日本で抗議行動が無いのか不思議がっているのもまた米国人である。記者団からの質問にピリピリしていた彼らは、『確かに第二次大戦のイメージが強いタイトルだが、真珠湾はあの戦争の一部であったに過ぎない。ルーズベルトが対日禁輸政策を取ったために、やむなく日本が戦争を始めたと認識している』とリップサービスに務めていたようだが、多くの米国人はそんな事は思ってもいないはずだ。本編を鑑賞してはいないのでやたらな事は言えないが、部分的な予告編を見るかぎり、60年代によく見られた『西洋人から見ると異常な日本人』的な描写が気になった。また、実際に試写会を見た人の話を聞く限り、ハルノートのハの字もなく、やはり日本人の描き方は偏見と屈辱ものだそうだ。この作品を絶賛する日本人は売国奴だと言い放つ人までいる。誰一人会ったことは無いが私の映画情報源となっている彼らの話をまとめると、見る必要のない屑映画のようだ。タダでさえ面白い映画が目白押しなので、この意見に素直に従うことにした。そう言えば数日前に発表された、アジア系の専門組織 National Commission on Asia in the Schoolsによる米国の大学入学が決まった高校生を対象に行われたアジアに関する調査では、驚くことに、4人に1人が北米大陸とアジアを隔てる海洋の名前を答えられず、約4人に3人が中国の故毛沢東主席(20世紀のアジアでもっとも同胞を殺した人物ぐらいは知っていても損はないはず)を知らず、半分以上が、ヴェトナムを島国(ヴェトナム戦争であれだけ関わっていたのだから、それは無いと思うが・・・)だろうとみているとう結果を見ると、案外そんなものなのかもしれない。しかし、日本の高校生の現状も興ざめする状態だが、この結果はそれを上回っている。どちらにしても、なんだか積極的に見たい映画ではなくなったのは確かだ。わざわざ嫌な思いをするためにお金払うなんて事は絶対に娯楽の世界にはあってはならないはずだし・・・。しかし、こういったネタは、やはり例の教科書問題が引き金となってしまったようだ。個人同士の付き合いでも誤解や勘違いから嫌悪感が発生したり、険悪な関係になったりすることは誰でも経験しているはずだ。しかし、これが隣国との間で数十年の長きにわたり、上辺だけの友好を続けてきたこと知った時、その虚無感は、驚きと絶望に豹変した。いや、もう驚きを通り越している。幼児期より事実無根の教材を利用し、徹底した、いや悪意に満ちたとしか理解出来ないような日本悪玉蔑視教育に官民そろって余念の無い国と友好を保とうと真摯に頑張ってきている人達は、隣国から見ると物笑いのタネなのだろう。残念なことだ。そういった異常とも言える国家統制による日本イジメが、新たな差別に発展している事すら理解できないほど冷静さを失っている国とは、一歩下がった対応が安全だろう。しかし、政治家でも歴史家でもない私が、もうこれ以上この問題を引きずったままコラムを続けることはブラックホールに向かってサーチライトを照らしいてるような虚脱感しか生まれないので、これに関連したネタは今回をもって終了することにした。そう言えばずいぶん映画のネタをしていなかったな〜。今年の夏は例年に無く映画三昧の年のようだ。
2001/06/25

0519 ●美空ひばり13回忌
今年は美空ひばりが他界して13回忌となるそうだ。ファンの方には失礼だが、実は私は生前の美空ひばりについては特に何も感じていなかった。歌手というのは当然持ち歌の内容が人気に反映されるる好きな歌手やグループなら当然レコードやCDなどを買い漁るはずだるただし、例えば私は桑名正博さんのファンなのだが、冷静に考えたらレコードもCDも持っていなかったという場合も少なくない。かたや、歌がうまいのは認めているが、TVに映るとスイッチを切りたくなるほど嫌悪感を感じる歌手もいる。要するに生理的に顔も見たくない、当然声も聞きたくないほどに嫌っている歌手のことである。これは、誰にでもある、もう生理的にこの人はダメというパターンだ。それでは生前、何も感じなかった美空ひばりは、顔も見たくないほど嫌いなタイプだったのか?と問われると違うのである。うまく説明出来ないが、その天性は当然認めていたが、さりとて熱狂的なファンとなるほど好きな曲が無かったという状態だったかもしれない。ただし、それは昭和という時代の話で、平成に入って発表された最後のヒット曲である『川の流れのように』を初めて聞いたとき背筋が寒くなってフリーズしてしまった自分を思いだした。恐らく最後のエナジーを彼女はこの曲に込めていたのだろう。私にとって彼女の歩んだ昭和という時代には特に気になる存在ではなかったが、皮肉なことに平成の代となって爆発的なヒット(結果として最後のヒット曲)となった『川の流れのように』一曲で彼女の存在感が私の中で突然爆発してしまった。もちろん『川の流れのように』だけなのだが、それを歌っているのは、紛れも無く歌手である叔母(15年ほど会っていないが、クラシック系の歌手で、知らない間にCDを1枚出していた)にオーバーラップした美空ひばりだからだ。もしかしたら私が年をとった証拠なのだろうか。でも、あの曲は聴いた者の心を静かに優しくさせる魔力があるのではないだろうか。今から思えば生で『川の流れのように』を聞いておくべきだった。そう・・・私の歴史の一駒として・・・。とは言ってもCDは持っていない。
2001/06/26

0520 ●突然の猛暑状態に唖然呆然脱力感
27日、東京は突然の猛暑に見舞われた。もう気力も無くなるほどの脱力感である。いきなり真夏では心の準備が出来ていないという感じだろうか。こういった時はやっぱりビールてをグイグイ飲むというのが定番だろうか。実は真夏でもビールをグイグイすることはほとんど無い私にはピンと来ない。やっぱり夏のおやつは水羊羹。食後のデザートは西瓜・・・てな具合である。こんな状態だから、ビールの販売価格が分からずにケース売りしている店の価格が安いのか、高いのかさえ理解できていない。当然日本酒や焼酎、ウィスキーも同様である。てなわけで今日の暑さに唐突にスーパーマーケットにダッシュして小玉西瓜を数個ゲットしてしまった。まさに猛暑による意識朦朧状態での衝動買いである。ところで西瓜と言えば、流石に今は出来ないが、学生の頃は大型西瓜を一人で平らげては、ハロウインのカボチャまがいの怪しい西瓜お化けを作成しては軒に吊していたりした。そんなに好きな西瓜も、食べ方となると実はいつまで経っても下手である。スプーンが無いと食べられないほど不器用だったりする。つまり、種を口の中で分けて吐き出すなんて器用な事がまったく出来ないからである。まじめな話、これが出来る人を私は尊敬してしまう。だからブドウを食べる時も実は一つずつ手で種を出すという馬鹿げたことをしてしまうのである。そうだ私は焼き魚の食べ方も下手であった。もう見るも無惨な状態となってしまう。やはり小笠原流あたり?に弟子入りしたほうがいいのだろうか。聞けば半熟の目玉焼きも皿を汚さずに上品に食べる技があるらしい。おもいっきり嘘っぽい気もすめけど、本当かなだろうか。
2001/06/27

0521 ●あと1ケ月で禁煙一回忌(一周年)
すっかり忘れていたが、このまま何事もなく毎日が過ぎていけば、申し込みしたFreeHand 10が届く頃にはめでたく禁煙一回忌(一周年)となる。もうタバコを吸っていた事も忘れてしまうほど日々の生活の中でタバコわ思い出すことか無くなって半年以上経過するので、多分このまま生涯禁煙が続くのではないかと楽観している。でも、世の中には10年以上禁煙していたのに戻ってしまった方もいるのは事実だ。まさしくタバコは合法的な覚醒剤の由縁である。ただ、時々変な夢を見ることが少し気になる。内容的にはタバコを吸ってしまうのではないかという脅迫概念である。吸ってしまっても別に悪いことだとは思っていない(自分の体を蝕むという意味では悪いことだが)が、予想外に簡単に止められてしまったことが逆に、心の片隅で本当に成功したのだろうかという疑念に変わっているのかもしれない。こういった話をすると、多くの人は『やはり吸いたいのを我慢しているのでは?』と切り返してくる。そう思われても仕方が無いかもしれないが、本当にタバコの習慣は消滅している。禁煙していることがゲーム感覚となっているわけでもない。当然義務感も無い。これは周りの人が太鼓判ほ押してくれるはずだ。でも、前記したように、ニコチンシールも、ニコチンガムも使わずにあまりに簡単に止めることが出来てしまったことがやたらと不気味なのである。神経質な性分というのはこんな時にナーバスになってしまうものなのかもしれない。余談だが、先日部屋を掃除したら、使い捨てライター(私は使い捨てライターしか使ったことがなかった)が色々なところからザクザクと出てくるのには流石に仰天した。部屋の全てを整理したわけではないが、それでも簡単に30個ほど集まってしまっのだから驚きである。あと幾つのライターが部屋に潜んでいるのだろうか・・・。
2001/06/28

0522 ●着信遍歴のチェックは、やっぱり慎重になる
時々、携帯電話がけたたましく鳴り響いていても着信を受理出来ない場合がある。絶悪のタイミングといったところだろうか。基本的に携帯電話番号は非公開を通しているのでかかってくる事も少なく、自分に携帯電話が鳴っていることさえ時々気が付かないことがある。馬鹿みたいな話だが本当のことだ。ところで、この絶悪のタイミングとなってしまったら、取りあえずかけ直すのが礼儀だが、アドレス帳に登録されていない番号は見事に誰からのモノか判らない。ある程度の番号は暗記しているとは言え、完璧に知り合いの番号を全て網羅しているわけではない。兎に角かかってきた電話が発信非表示であれば、さっさとメモリーから消してしまえばいいが、可能な限り登録している関係各位の電話番号に引っかからずに、番号だけが表示されていたりすると話は厄介だ。まず真っ先に考えられることは【間違い電話】だろうか。うっかりかけ直してとんでもないことになったという人の話を聞いたことがある。番号表示が仇となってしまうのである。だから、ここは慎重にならざるを得ないが、取りあえずコンピュータ側の住所録をチェックしてみる。少なくとも携帯電話よりは多くの情報を入れているが、出会った方のデータ登録状態は煩雑そのものである。結局検索にも引っかからないデータは、思い切って【間違い電話】として処理してしまうのだが、これで本当に良かったのだろうか?と、いつもの心配性が芽を出してしまうのは宿命なのかもしれない。そう言えば、『こちら赤レンジャー』と言って通じる友人が一人いる。いい年して馬鹿みたいだが、こういった馬鹿さ加減は大好きだ。
2001/06/29

0523 ●ばかにできない小学校の算数
大学生の分数計算が出来ない問題は案外深刻なようだ。そんな事は多くの人にとっては無関心事項かもしれない。でも、次のような問題に突然遭遇したら、貴方の解答はどうだろうか?【時計の長針と短針が直角になる時が1時間に2回ある。直角になってから、次の直角になるまでの時間は何分何秒か?】多くの人は即座にその解答を30分と記載するのではないだろうか? ところが、事はそんなに簡単ではないのである。まず直角の90度から次の直角である90度になるまでに長針が短針よりもよけいに進む角度は【90+90=180度】となる。長針が1分(6度)進むと短針は0.5度進むので、再び90度となる時間は【180÷(6−0.5)】により【32+8/11分】となる。ここで分数部分を【8/11×60=480/11=43+7/11】のように秒に単位変換し、解答は【32分43+7/11秒】ということになる。論理的な事は頭で判っていても、ここに行き着くまでに私は30分ほどかかってしまった。これを情けないと見るとか、小学校の算数が難しすぎると見るかは千差万別だろうが、少なくとも来年度からは恐ろしく算数の扱う範囲が狭まってしまうそうだ。以前も話したようにπは3.14ではなく3として処理し、小数点以下1桁以上の解答は存在しなくなる等、少しばかり神経を疑いたくなる行政が施工されるそうだ。そもそも時計を教えないので上記のような問題そのものが存在しなくなってしまう。ゆとり教育というのは確かに大切かもしれないが、だとしたら今の小学生の父母にあたる世代に学んだ者はゆとりのない学生だっということになるのだろうか。何かが間違っているような気がしてならないと思うのは私だけなのだろうか。
2001/06/30





このコラムは私自身の体験等を整理したもので、内容を推奨・保証するものではありません。


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